2016-08-30(Tue)

『君の名は。』について。

 『君の名は。』見てきました。もう、なんか良いな!って思ったので忘れないうちに感想を書いておこうと思います。忘れたくなかった感想…忘れちゃダメな感想…!
 ネタバレ有りです。読みにくいです。2回目見たので少し加筆。


 新海さんの作品は出会いを重要視していると思ってるんですけど、『君の名は。』は単純に瀧と三葉の出会い、というわけでなく、瀧と三葉を取り巻くキャラクター、果ては祖先までが瀧と三葉の運命を紡ぐ作品になっていました。『言の葉の庭』の次作という視点で言うなれば、孤独からの脱却であった『言の葉の庭』から、連帯する人の存在を生み出した『君の名は。』…となるのかなと。それを象徴するのが三葉の祖母・一葉の「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それがムスビ」というセリフ。人との関わりが物語を作り上げ世界を作り上げる。今までの新海さんの作品と比べると、モノローグがかなり少ない理由も人との関わり(ムスビ)にスポットを当てているから、と。
 ただその分、BGやBGオンリーのカットのインパクトは薄れたような気もします。黄昏時がフィーチャーされていますが、キャラクターを中心としているようなBGの使われ方が多い。露骨に前に出ない分、キャラクターの生きる世界としてはすごく溶け込んでいたとは思うんですけどね。

 「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れ、またつながり。」これを現すかのような、キャラクター等を対照的に配置した画面作りがとても面白かったです。
 序盤の瀧と三葉は特に、進行方向に気を使っている気がしました。三葉は左へ、瀧は右へ。この時はまだ交わらない(物語的にはもう因果が発生してはいるんだけど)からこそなのかもしれないけども、同じ画面にいながらも二人がすれ違わない、そんな画面づくりでした。二人の向きとして一番グッと来たのは、二人が彗星を見上げる時。あおり気味で後ろを回りこむ画面なんですけど、右から左へ二人の表情を捉える画面は、まさしく2つの世界がシンクロした瞬間のようで、画面の美しさと共に涙が出そうになりました。遠くにいながらも同じ時間同じ空を見上げている。その瞬間は確かに瀧と三葉は気持ちを共有していて(瀧にとっては知らない少女である三葉だけれども)二人は同じ方向を見上げている。鳥肌が立ちました。

 月も特徴的な使われ方をされていました。月が明確にセリフとしてでてくるのは、月と地球の距離よりも彗星と地球が接近するというニュース番組での言葉。月・彗星・地球という関係性に限って見ては、月は瀧から見る糸守、三葉から見る東京を指します。その間を流れる彗星はまるで二人の間を決定的に割くように流れる。まあ単純に二人を割くために彗星は存在していないんですけど、月と彗星と地球がピックアップされるときはそんな立ち位置だったと思います。
 二人が相手の世界に行くことが出来ない瞬間には月が遠い場所、立ち入れない場所として出てきます。入れ替わりがなくなり、糸守の絵を書き続ける瀧のシーンでは金網の向こうに満月が見える。瀧の中で糸守の街は高山ラーメンのオジさんに認められるような糸守を描いていて、それは満月を見るようにくっきりと糸守を捉えている。でも目の前には金網があり、そこから先は進めない、というような関係性。金網は×の形をしていて、瀧と三葉のムスビが交わり、その後どんどんと離れていってしまっているかのよう。その後のクレーンにつけられた赤の点滅灯が月(この月は少し欠けている)に届かない位置で光っているのも、まるで瀧に届かない糸守と三葉みたいで、とても幻想的でした。そんでその後、飛騨に行く瀧のTシャツには半月が描かれているっていう。少しずつ三葉の記憶や距離感が遠くなっていくかのよう。
 手元にある『イメージシンボル辞典』で月を調べてみると、相反する価値を表しているそうですよ。これはまあ西洋的な考えで、的外れではないんだろうけど、なんか漠然としてますよね。『君の名は。』の作風を考えるとかぐや姫とのリンクを考えてしまうかな。月はかぐや姫(三葉)の故郷(糸守)で、彗星は地上に降りた月の使者。ラストカットの階段は三葉が階段から降りてくるわけですが、月から再度舞い降りてきたかぐや姫…なんて感じで。と考えるとかぐや姫の「今はとて天の羽衣着る折ぞ君を哀れと思ひ知りぬる 」という和歌は入れ替わりがなくなってその時の記憶が薄れていく二人と被ったりしませんか。三葉が神職の一族だからか、高いところから落ちるor降りてくる芝居も多い気がしますがどうでしょう。
他にも二人の世界の拡げ方として、襖や電車のドアを真横から写したカットが印象的だったり…。

 一番好きなシークエンスは三葉が瀧に会いに行くところ。作品内では瀧が先に三葉への好意を(ぼんやりとではあるけどミキに指摘されて)明らかにする。でも実際には3年前に三葉が瀧へ好きという感情を行動で明らかにしているってのがもどかしいというか、面白い構成。どちらも相手に対して好きだということを言葉にはしていないんだけど、行動で伝わってくる。いつ好きになったかということは漠然としているんだけど、二人が会いたいと思っているのは間違いなくて。その中で三葉が瀧に会いに行くところは、ここぞとばかりに三葉のモノローグを入れて、三葉の精一杯の心象を凄まじい甘酸っぱさで表現していました。瀧の目の前に立つ三葉、そわそわして、どう声をかけようかなと思慮する三葉、どれもこれもが愛おしい。三葉がホームから見上げた小さな空、カタワレ時の空がその小さな三葉の勇気や、不完全なカタワレ時を演出していて素敵でした。

 んでまあ、やっぱり『君の名は。』というタイトルですから、これを言うタイミングとかとても楽しみにしてたわけなんですが、とっても良かったですね。最後のカタワレ時にマジックで名前を書いておこうってとことか、三葉が転んで手を開くところとか、その度にここなの?ここで名前だしちゃうの?とそわそわしましたが、その結果の都度、心の中でガッツポーズしてましたね。最後の最後まで引っ張った「君の名前は」は、まさに忘れちゃいけない名前を尋ねるかのように苦しくて、心の奥深くに眠っていた言葉を呼び醒ますかのよう。その瞬間にたどり着くまでの切なさとかもどかしさがすべて吹き飛ぶかのような、それでいてしっとりとした言葉。涙が出ました。声を掛ける前の瀧くんの芝居作画も素晴らしい。表情は見せず、影と姿勢だけで瀧の決心を表現してる。言葉を発するまでの躊躇いや過去何度も経験したであろう錯誤の可能性…そういったものが俯いた瀧の影として画面に出てくる感じが、瀧の心の中にある執念にすら見える。ちなみに最後「君の名は」じゃねえのかよってのはまあ、今に生きる人達が使う言葉じゃないしという40点くらいの回答で。ここも今後熟慮する点ですね。
 逆に初めて二人が相手の名前を呼んだのは瀧がご神体へ行ってから。「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それがムスビ」。この言葉を瀧が聞いて個々人のムスビを意識し始めたのだろうか。三葉の半分である口噛み酒を手元収めた瞬間に意識し始めたのだろうか。それまでは入れ替わりの相手に過ぎなかった「アイツ」を名前で呼び始めた心理をもっと知りたい。



 ここからはちょっとネガティブな部分。
 瀧と三葉の父母についてはもっといろんなものを見てみたかったかなあと。三葉の母・二葉と三葉の間には過去どんなやり取りがあったのかな、とか。入れ替わりについて仄めかしたり、柔らかな時間があったのかな、とか。入れ替わりは宮水家が糸守を守るための手段であり、それを宮水家の女子は引き継いできた。三葉の母・二葉と父・トシキの関係については映画の描写だけで十分だと思うんですよ。「私は宮水ではなく二葉を愛していた」というセリフは、怖い顔しか見せていない劇中のトシキからはあまりにもダイレクトロマンチックなセリフだし。ほいでトシキは多分二葉とは入れ替わってないんでしょうね。入れ替わっているとするならば宮水一族について「妄言は血筋からなのか」みたいな断定はしないだろうなあと。愛する二葉の言葉をそんなバッサリと否定出来ないと思う。ただ二葉から話は聞いている若しくは入れ替わりを目の当たりにしているから「お前は誰だ」と瀧が入った三葉に言うし、その後三葉となった三葉の言葉を信じることが出来る。説明は不足してないと思うんですよね。…と何故かフォローに回ってしまったけど、もっと宮水一族の過去を覗いてみたいとは思った。必要であるかと言われるかと微妙なんですけど、そういう場面が見たかったんだからしょうがない。

 あとOPを入れた理由がわからん。『君の名は。』という作品のスタート地点があるとしても、この作品内の世界は過去から紡がれてきた歴史があって、そこから地続きになって彗星落下からの被害を防いだわけじゃないですか。二人の出会いには今までムスばれてきた経緯がある。それを作品の途中でOPという、いわば隔離された時間を作るのは、そこで作品内の世界を一度切ってしまうことにはならないか。「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それがムスビ」なんだけども、それはあの世界で見せるべきものであって、製作側の意図で生まれるOPという時間は、『君の名は。』にはそぐわないと思う。視聴者としてはアバンである部分とOP後の部分、2つを意識することになる。OPでどんな作品であるか見せるよりもキャラクターが言葉を交わして、どんな世界に生きているのかを見せるほうが有効じゃないかと。そう思いました。




 「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それがムスビ」。何度も引用してしまうけど、これが『君の名は。』には大事なセリフで、物語の根幹をなすセリフ。ムスビは途切れたりすることもあって、それは最後に再会した瀧と三葉の未来にもあること。『君の名は。』と言葉に句点を打ったそこは、作品としての終わり。でもその先に続く言葉は、間違いなく存在する。


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2016-08-06(Sat)

シン・ゴジラについて。

 お久しぶりです。なんともう8月。いろいろブログに書きたかったこともあったけど、忙しさを理由にないがしろにしてしまった。最近感想残しておくことの大事さを身にしみて感じているので、もう、なんか良いな!って思ったらすぐどっかに書くようにしてる。

 シン・ゴジラを見てきました。庵野監督作品って嫌いではないんだけどのめり込んだこともなくって。そのうえゴジラってあんまり印象なくて。ハム太郎と同時上映した時、ハム太郎がゴジラに食べられてるキーホルダー貰ったなあとか、あれ生まれて初めて親同伴無しで映画館行ってわくわくしてたなあとか、そういう印象しかない。…割といい思い出だった。
 ちなみに一日に2回映画館で見ました。これも初めての体験だ…。お金がなかったのでATMを探し、お金おろして2回目見ましたが、良い判断だった。1回目は言葉の情報量に飲み込まれて画面に意識が行ってなかった。
 ということで前知識とかゼロですが、感じたことをそのまま。ネタバレあり。

 自分が良いなあと思ったのは大きく分けて以下2つ。

 ○各キャラクターの意思の表現と画面
 例えば序盤、官邸で会議開いたりなんだりしているところ。出席者は大勢いるのにほとんどが感情を出さず、淡々と具申したりペーパーを読み上げたり…テンポよくカット割ってるけど、芝居が飄々としている分、緊迫感は薄い。でもトンネル事故等の原因が巨大生物である可能性が高まると、芝居やFIXの画面が途端に強硬な表情を見せる。総理大臣から見た主観視点で、各省庁の大臣が意見を次々の述べるカットでは、各大臣が無表情で、まっすぐとカメラを見つめて意見を伝えてくるんだけど、淡々とした口ぶりでありながら情報量が多く、真意が読み取り辛い言葉であるから、その言葉の波に飲み込まれ、圧倒されてしまう。それは同じ目線から言葉を浴びせられている総理大臣も同様だろうし、緊迫した状況を客観視させない画面作りをしているなあと。
 ここの場面って大臣本人の意思表示という要素は少ないんだけど、発言にはその後ろに居る各省庁職員の思惑や策略が含まれていて、大臣は各省庁の集合体として存在しているかのような、ぼんやりとしているけど大きな意思表示になっている。それがまたどこまで大きなものであるか分かりにくく、掴みどころがなくて怖いっていう。しかもアップで大臣の顔は撮られているんだけど、後ろにピンぼけで秘書官?事務次官?が座っていると、まさに大臣の背後にある意思が見え隠れしているようで恐ろしい。だからこそ防衛大臣が自衛隊の攻撃が無為に終わってしまったことに対し感情を露骨に見せている場面が特徴や大臣の性格を前に押し出し、他の省庁とは違う印象を受けるのかもしれない。

 表情や顔を見せないことによって印象的になっていたところもあった。
 巨災対のメンツが思い思いの考えを話すカットは誰かの後頭部越しに、カメラ側に向かって意見をぶつけてくるカットが多い。聞いている相手の表情や感情を排除した、一方的な意思表示であることを強調してて、圧迫感ある画面でとても良かった。巨災対はチーム感が殆ど無くて、言葉で殴りあってるような気がして面白かった。みんな一方的に発言するんだけど知恵が集まって対応策の立案にたどり着くっていう。基本的に主張を訴える時って真正面から映す画面なんだけど巨災対のメンツは右を見たり左を見たり…比較的バラバラとしているように思えた。統一感のなさが伝わる良い画面作りだと思う。
 他にも代表者然としたキャラクターを少しでも減らそうとしている画面作りが良かった。米軍なんかはカヨコが米国代表みたいなポジションだったけど、米国の決断とか方向性をカヨコが決めた場面は無くって、カヨコからの働きかけの結果、顔の見えない米国高官が大統領に核使用について低減をする、みたいな間接的な活躍として見せようとしているのが印象的だった。意思決定を下す米国(その他の国も)の人間は最後まで出てこない。皆大きな「圧力」のなか自分の意思を示そうとしているから誰かが英雄になることも無い…みたいな。

 序盤はやっぱり登場人物も多くて、見始めたばかりの時間帯だから混乱することも多い。それが緊迫感だったり混乱した状況下、という印象を与えているのかもしれないけど、後半の整然とした画面作りも良かった。
 立川の本部屋上で矢口と赤坂が自身の主張をぶつけあうところ。今まで人が多く閉塞感を感じる画面が多かったのに対して、空と屋上のコンクリートが画面の殆どを占める。空の雲も印象的ではなくて、それが逆にシンプルな画面に見えてくる。カメラはフォローパンしてて、矢口はずっと画面右を向いて歩く。赤坂は途中から画面左を向いて意見を衝突させる。その後に後頭部越しのカメラがあって、一方的に言葉をぶつけあっているように感じる。画面右への方向性は世界の主流ではないものの、ゴジラをなんとかした後の、未来の東京を見据えたプラスの方向で、画面左は世界が考える方針、日本からするとマイナスな方針…東京壊滅・復興の遅れ已む無し(=赤坂の方針?)という立ち位置なのかな。その後も国連決議も出たんだ!って言う赤坂の場面とか、画面左へ歩いて行って振り返って話す(そのまま写すと右を向くことになる)ところで、あえてカット割って赤坂を真正面から映すカメラにして、右を向かせないようにしている。
 矢口はその後も基本的に右を向くんだけど、ゴジラを見据えるときは左を向くんだよね。それも画面の左側に写して。ここの意図はなんだろう…。
 ゴジラのカメラ内の進行方向はかなりバラバラだった気がするけど…あぁちゃんと意識して見てないな。法務大臣が「なんでこっちにくるんだ!」って言った辺りで少し意識し始めたけど…あぁもう一回見たい。


○登場キャラクターを英雄にしない演出
 ゴジラが来たから倒す。シンプルだからこそこの「倒す」役割を誰にするかによって、それが英雄然としてしまわないか、正直心配だったけど上手く避けていたように感じる。
 矢口が中心人物だから祭り上げられてしまいそうなんだけど、そこをラスト…普通であれば歓喜の瞬間が訪れるところを安堵やこれからの復興を視野に入れ始めた…みたいな反応で、矢口の感情をおおっぴらにしないことで英雄的な印象も和らいでるし、なにより矢口が対応策に気づいたわけでなく、ただ決裁を下すポジションであったという風に序盤から下積みを重ねてきたから嫌味っぽくもない。そしてゴジラに近づいて、実際に冷却剤を注いだのが名も無き部隊員っていうのも良い。冷却剤の投入方法もすごく地味だし。
 そいで一番痺れたのは、ド派手にゴジラにぶつかっていくのが近代日本を象徴し、日常的に日本人が使っている新幹線や電車、オフィス(ビル)ってのが、最高にかっこいいじゃないですか。今まで蓄積してきた日本の叡智たる無機物な機械達が、日本の背景を背負ってゴジラにぶつかっていく。宇宙大戦争をバックに。序盤でゴジラに蹂躙されて吹っ飛んでいった北品川駅の車両や簡単に押し倒され、真っ二つになっていたビル群がまるで反撃するかのようにゴジラに襲いかかっていく。ここだけ異様に復讐劇っぽくて、人間的ってのがもうたまらなく好きです。
 登場キャラクターを英雄にしてゴジラに挑ませるのではなく、たくさんの人達が作り上げ、改良されてきた機械を使ってゴジラに一矢報いる。かっこいいですなあ。


 以上。支離滅裂に長々と感想書いたけど、新幹線とか横並びする在来線とかキビキビ動く戦車とかでうわーすげーかっけー!ってなれて、そういう自分がいることを確認できたことが一番印象的だったりします。このワクワクとドキドキな体験があるからいっぱいアニメも映画も見たいと思えるのよね。
 ブログ…もっと更新したいなあ…


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アニメ『グランブルーファンタジー』に斉藤良成さんがメインアニメーターとして関わるようですよ。絶賛応援。

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